映画監督の古新舜さんに関するゲンダイの記事が興味深かった。
「そこに答えはない。視野を変えれば違う答えがある」
(本文より抜粋)
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たしかに。学校教育の試験では1~4の中から答えを選べ、という問題が多い。しかし、大人になって社会人として仕事をしていく中で選択肢を与えられることすら少ないし、与えられたとしてもそこに最適解がない場合の方が多い。視野を変えて新しい選択肢を提示することの方が求められるし価値がある。
私は教え子に「正解はないよ。アナタが考えたことが答え。だけど ”なぜそう考えたか” を説明して、そこに価値があるから」と声をかけることが多い。
こう声をかけると、正解探しを強いられてきた子どもたちは少し安心して自分で考えはじめる、そして「なぜ自分はそう考えるのか」も説明しだす。
子どもたちは、家庭教育や学校教育、塾教育の中で「正解探し」を強いられているのだろう。だから、まずは「正解はない。自分で選んでよい」と安心させなくてはいけない。
ただし、ただ選べばいいというわけではない、選択(自由)には説明責任(義務)があるのだ。だから「なぜ、そう考えたか、そう思ったか」を説明させる。
こういう一つ一つの指導によって、子どもたちの「自立」につながっていくと私は考えている。
※余談
私は「規律(躾)と自由(個性の尊重)は両立できる」と考えている。最近の教育界には、統率や統一はダメだという風潮がある。しかし、それは「規律(しつけ)と強制(おしつけ)を混同している」か、規律(躾)がなんたるか分かっていない教育者だと私は思う。
教育の場は社会と同じ。
社会は法律(規律)が守られているからこそ各自が安心して生活できる(個性の尊重=自由)のであり、無法地帯には安心がなく個性の尊重などありえない。
教育の場においても同じで「当たり前のことを当たり前にする」という規律が土台にあるということは、すなわち相手への配慮があるということ。だから、各自が相手の発言や行動を認めることができる個性が尊重される自由の場につながる。
なんでも自由になどと安易に考えている教育者は、自由と我儘の違いが分かっていない。その違いは「他者に迷惑をかける(=我儘)、かけない(=自由)」である。規律のない自由を叫ぶ教育者が提供するものは、真の自由が存在する教育の場ではなく、我儘があふれる単なる無法地帯でしかない。