「みのたけ」の 教育・投資・生活etc

みのたけ中年の趣味用雑記メモ(非収益化ブログ)。倹約と投資で労働から卒業した隠居生活者。投資歴は20年ほど。

「登場人物の気持ちを答えよ」という問い

 

↓こちらのWEB記事について私の意見を以下に書いていきます

askoma.info

 

 

現場で指導している者として、これ「(登場人物の)気持ちを考えよ」という存在は大きな問題

 

私は国語の読み取りにおけるこのような「気持ちを答えよ」という問いは言語学習ではなく「道徳もしくは社会文化」の学習になることが多々ある、と感じている。

 

塾で受験用の問題を指導していた経験から、良問の解には明確な「根拠」があった。しかし、国語の「気持ちを答えよ」系の問題には悪問が多く、教師が答案集を見て根拠を確かめても「この解答(根拠)強引すぎじゃね? 作問者ダメじゃね?」と思うことも多かった。

 

 

WEB本文では
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ここで問われているのは、「あなたがどう思うか」ではなく、「私たちの属する解釈共同体では、この場面ではどのようなコードに従って解釈するのが妥当か」だからです。問われているのは、あくまで「私たちの解釈共同体の妥当解」なのです。だから、そのコードを全く知らないと、答えることができません。答えは「本文の中」ではなく「本文の外」にあります
(WEB記事より抜粋)
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とある。

この説明は間違っていない。非常に重要なことを述べている。

 

重要な点は、答えが「本文の外」にある時点で「言語学習」ではなく「一般常識・社会通念(=文化学習)」になってしまうだろうということ。

 

WEB記事は以下のように続く

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私たちは、厳密には一人一人異なる「様々な思い」を持ちつつも、でも同一の文化を共有する共同体のメンバーである以上、コミュニケーションに必要な解釈のコードを持っています。そして、物語文における心情の読み解きとは、その解釈のコードについての問いなのです。だから、直接書かれていなくても、「私たちの解釈共同体では、このように解釈する」ことを、問うことも、答えることも、できるのです。

 

こういう観点で物語文の授業を見てみると、教室とは「解釈共同体のコードとその適切な運用を教える場である」という側面を持ちます。まだ幼い子どもたちは、僕たちの解釈共同体のコードに必ずしも通じていません。そこで、教室では、心情描写や情景描写を読み取るという体裁を取りながら、教師は「私たちの解釈共同体のコードはこうですよ」「共同体の一員になるには、このコードを理解しないといけませんよ」ということを教えている

 

ここで問われているのは、「あなたの解釈」ではなく「私たちの共同体における妥当な解釈」です。それを問いつつ、大人の代表である教員は、子どもを共同体の一員へと「馴致」していきます。われながら意地悪い言い方をしている自覚はありますが、学校の持つ「社会化」機能は、物語文の読み取りの授業ではこういう形であらわれます。
(WEB記事より抜粋)
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と書かれている。確かに学校現場では上記の通りのことが行われているし、おっしゃる通りだと思う。

 

要するに、「国語」を「子どもを、その社会の枠組みの中に押し込むための教科(共同体の一員として洗脳する学習)」として利用するなら、「気持ちを考えよ」という問いは「アリ」となる。

 

しかし、「国語」を「言語学習」と捉えるなら「ナシ」である。なぜなら、純粋な言語学習であるなら「答え(根拠)が本文内になくてはいけない」からだ。

 

根拠が本文外にある場合は、言語学習ではなく「文化学習」になってしまう。

 

分かりやすい例として、日本語を学んでいる外国人(日本の文化的背景を持たない人)に「気持ちを考えよ」系の国語(日本語)問題を解かせたらどうなるかと考えてみるとよいだろう。

私は実際に海外で、日本人でない人たちに日本語を教えていたことがあるから自信を持って言えるが、これは「言語学習」ではなく「文化学習」である。

なぜなら、「根拠は本文のココにあるよね、だから〇〇が答えだよ」ではなく、「日本では一般的にこういう風に考えるから〇〇が答えになるんだよ」と解説することになるからだ。

重要なのは、この解説を聞いた外国人の反応が「へぇ~、日本ではそうなんだ。でもウチの国では違うよ」となることが多々ある点。

つまり「気持ちを考えよ」系の解答根拠が本文の外(文化的背景)にある場合は、「文化(国や宗教など)が異なると答えが異なってしまう」

このように「気持ちを考えよ」という問いは、完全に「文化学習」であり「言語学習」ではない

 

 

最後にまとめると
「国語」という教科もしくは授業を「子どもを日本社会の枠組みの中に押し込むための道具もしくは時間(共同体の一員として洗脳する学習もしくは時間)」として捉えるなら、「気持ちを考えよ」という問いは「アリ」となる。

一方、「国語」を「日本語という言語の技能を学ぶ教科もしくは授業」と捉えるなら「ナシ」となるだろう。なぜなら、純粋な言語学習であるなら「答え(根拠)が本文内になくてはいけない」と考えられるからだ。

ちなみに、私の立場は「ナシ」の方である。

 

 

ただし、「そもそも言語は文化的側面を絶対的に含む」と言われてしまうと議論が変わってくる。これだと「言語」をどう定義(もしくは理解)するかという話からやり直さなくてはいけなくなり、前提が変わるので議論が噛み合わなくなる。だから、それはまた別の話。

 


※このことについて問題意識を持っている人が多いからか、初等教育の国語業者作成テストにおいて、「気持ちを答えよ」系の問いは少なくなっている(もしくは根拠が明らかな問題が大半)という現状に注目すべきだと思う。個人的には良い傾向だと感じている。

 

 

↓個人的に、この福嶋式は純粋な言語学習なので好き。偏差値20アップするかどうかは別問題。

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↓こちらが反論されているWEB記事。私個人としては同意する点も多い。

gendai.ismedia.jp

 

 

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