大阪市立木川南小学校・久保校長による大阪維新・大阪市長への「提言」
木川南小学校長、支持、不支持が盛り上がっている様子
「提言」の全文読みました。
半分同意、でも半分は中身がナイ(意見のための関係ない意見)。
そもそも「学校の常識、社会の非常識」
子ども達が学校を卒業してから「戦っていく(生き抜いていかなくてはいけない)」人間社会は、今も昔も「学校の外」にあります。
学校現場って民間企業と違って「KPI」がないんですよ。教育過程における方向性を示す定量的な評価軸、明確な目標軸がナイ。だから教員の勤務評価は客観評価はまったくなく、上長を主とした周りの人間からの「なんとな~くな、定性的評価」が主となる(お給料は基本的に年齢次第。評価が関係するのは〇〇主任になるならないあたり)。だから働き手である教員の仕事の過程が「組織の内側を向いた仕事の仕方」になる。多分、これは「公務員全般」そうだと思います。
この久保校長が言っていることは理想で、確かに「志」のある先生達にとっては、久保校長の主張通りの施策で「充分OK」。 ※ここは私も同意な部分
だけど、公務員先生だけでなく私立含め、ガッコの先生達「全員」が「志」を持って「全力」で仕事しているか、というと、答えはもちろん「NO」。
だから、そういう先生に対しては「明確な目標と定量的な評価軸」が必要。で、その方法が維新大阪としては「全国学力・学習状況調査、学力経年調査」ということ。
個人的には、全国学力・学習状況調査、学力経年調査に主眼を置いて学校評価と教員評価をするのは「万能ではナイ」と思いますが、であれば久保校長は「定量的な代替案」を提示しなくてはいけない。
しかし、この久保校長の提言は定性的な「思想論」ばかりで、組織改善の拠り所となる定量的代替案がナイ。 ※ここが「中身がナイ」と言える点
だから、私は久保校長のこの意見に対して「半分同意、半分は中身ナイ」と思います。
※自分で高みを目指していける内なる「志」を持った人間は一部のみで、大半は「お尻叩いてくれる仕組み」が必要。これガッコの先生(公務員先生)に限らず、私立教員でも、塾の講師でも、民間企業(例えばメーカー勤務)の社員でも同じでしょ??
私は、こちらの経営者さんの御意見に強く同意します。
↓
多くのベンチャー社長が部下育成で頓挫する。部下育成のゴールは社員一人一人が自発的行動をする様になる事である。だが多くの経営者は自発性は天性の物だと勘違いしている。誤解を恐れず言うならばそれは甘えだ。人に自発性など備わっていない。泣こうが喚こうが強制的に自発性を植え付けるしかない。
— Tyler444 (@Tyler_consul) 2021年5月21日
※※ 私、公立私立学校+民間教育企業で、教育業界に足を踏み入れ色々と体験して学ばせていただき、かれこれ20年ほどです。追加すると、祖父と父は経営者でした。
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※以下、元ネタの大阪市立木川南小学校・久保校長から大阪市長・松井氏への提言※
大阪市教育行政への提言
豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために
子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。
学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。
今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。
現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。
また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。
つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。
「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚(むな)しく、わたしたちの教育への情熱を萎(な)えさせるものか、想像していただきたい。
子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。
あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。
間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。
「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。
コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。
根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。
令和3(2021)年5月17日
大阪市立木川南小学校
校 長 久保 敬
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学校の常識、社会の非常識
久保校長先生、おつかれさまでした。悪いセンセイではないと思いますが、一度、民間企業で先生以外のお仕事をしてみてください。
繰り返しになりますが
子ども達が学校を卒業してから「戦っていく(生き抜いていかなくてはいけない)」人間社会は、今も昔も「学校の外」にあります