「みのたけ」の 教育・投資・生活etc

みのたけ中年の趣味用雑記メモ(非収益化ブログ)。倹約と投資で労働から卒業した隠居生活者。投資歴は20年ほど。

自由な器と不自由な器 学校の先生は塾をどこかで見下している? 自由・選択・競争

 

公立私立の一条校(学校)&大手塾と中小の塾で、正規雇用もしくは常勤として働いてきた経験から言いたいコトを書く。※この界隈で20年ほどやってきました。


長くなるので要約すると『ガッコの先生の多くは塾のことを”心のどこか”でバカにしているけど、実際は塾どころか民間企業勤務経験もなく”学校しか知らない”だけ。しかも、実際は学校教育より民間塾の教育の方が優れていることが多い。そのような学校の質の低さは”学校教育が抱える構造欠陥に起因する”』という話。そして、その分析と改善方法の提案。以下


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体験してきて痛感してるのは「学校の先生達は、どこかで塾を見下している」ということ。ガッコのセンセ達の多く(全員ではないだろうが「少なくない割合」)は、”心のどこか”で「学校の方が塾より上だ」と考えている。


私は、そういうセンセ達はダメだと感じている。日本において、ガッコが塾より優れているなら、こんなに大量の塾が日本社会に存在するわけがない。公立、私立、大中小塾での就業体験を通して、逆に「大半の学校教育より塾の方が優れている」と言いたい。


未だに学校教員の多数派は、塾の「社員(学生アルバイト講師ではなく)」として働いたことがないことはもちろん、「他の民間企業で働いたこともない、学校生まれ学校育ちの学校勤務(学校教育・学校社会しか知らない先生)」が非常に多い。要するに「学校での勤務経験しかない」先生が多すぎ


そして、学校、特に公立学校は「構造欠陥」が酷すぎる。「頑張った人、実力のある人」が「報われない、果実を得られない」。少なくとも、月給も賞与も「年功序列」でしかない。昇進に多少の差はあるが、基本年功序列。塾のように20代後半や30代前半で組織の中枢に入っていく、なんてことは公立学校ではナイ。せいぜい現場の主任か教育委員会経験どまり。


そんな構造で教員による自発的な(もしくは必要に迫られた)改善改良発展が頻繁に起こるわけない。少なくとも、公立学校の教育の歩みの速度(変化のスピード)は民間教育より明らかに遅い。例えば「20年前に大手塾がやっていたことを今ごろ始めているのが公立学校」。


このように、公立と民間、学校と実社会の乖離は常に拡大を続けている。だから、非効率的で現実離れした公立学校では、志を持って頑張る先生が限界を超えて倒れ(実際、知人友人で何人も先生が倒れている)、実力のある先生は自分の手の届く範囲(担任学級と担当授業)に注力するか、諦めて腐るか、公立ガッコの先生を辞めることが多い。


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学校(一条校、主に公立学校)と塾の違いは何か? それは「競争」と「選択の自由」の有無


学校(公立学校だけでなく私立学校)は「許認可」という凄い参入障壁で守られている。これはマスコミの記者クラブ制度に匹敵するような「競争阻害要因」。


塾のように「自由な競争」がないので、学校(特に公立学校)は「絶対に倒産しない(公だから当たり前だけど)」。「競争相手がいない」から、学校組織内で教員各自が競争(切磋琢磨)する動機づけがない。結果、学校では「惰性の教育」と「質ではなく、勤務歴と声の大きい人」の発言が優先されるようになる。


公立学校には、客観的に各教員の努力や成果を図る指標がない。塾であれば「どれだけ合格者を出した、どれだけ偏差値上げた、どれだけ売り上げた、どれだけ純益だした」という定量的な評価目標(KPI)が入社1年目から課せられるのが普通だが、学校教員は、基本的に、一生そのような「数値目標を背負う」を経験しない。せいぜい馬鹿馬鹿しい「全国学力テスト」に翻弄されるだけ。


己の実力、努力や工夫、それらの成果を計る指標がないから、ガッコの先生においては、頑張っている先生や実力である先生ですら、大半が「自己満足の教育論」を振りかざす「自己満足教育提供者」となっている。


で、こういう話をしても、ガッコの先生しか経験したことのない人には「話が通じない」ことが大半(何度も体験済み)。ハッキリ言って、ガッコの世界は「ヌルイ」か「自己満足」か、そんなことが多い。そして地獄が待っている↓


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一方、公立学校の中には「地獄」とも言えるような「地域(学区)」にある「監獄以上のブラック労働」の現場も少なくな。その場合は「地獄監獄」における「自己犠牲」という、どうしようもない教育労働現場となる。そのような過酷な労働環境において、質の良い教育が提供できる可能性は、もちろん低い。


以前、私は塾支店長時代、質の悪い客(契約内容を超えた無理な要望や理屈に合わぬクレームを言ってくる輩)は自己責任でサクサクと「切り捨てる(退会へ向かわせる)」という手法をとっていた。結果、本部からゴリゴリと詰められる会員数は目標値に達しなくても、純益は目標を大きく超えるという「量より質」で成果を出した。


この方法だと、教育提供者と教育受給者の双方に益がある。教育提供者(先生)はモンスタークレーマー輩に関わる膨大な無駄時間と心的負担を大幅に軽減でき、教育受給者(”マトモ”な児童生徒とその保護者)は先生から手厚い支援と教育を受けることができる。結果、WinWinの教育が提供できた。


これは、塾においては、保護者(児童生徒)が「塾を選ぶ自由」を持つと同時に、教育従事者(先生)が「客を選ぶ自由」を持っているからできること。ただし、業績重視の塾において客を選ぶためには「上司や本部から詰められても折れない覚悟」は必要。


学校教育、特に公立学校では、このような輩(モンスタークレーマー保護者+児童生徒)を除外するということはできない。どれだけ周りに迷惑をかける人間(児童生徒・保護者)であっても「教育を受ける権利」という横暴な虚構のイカサマ権利があるため。


結果、モンスタークレーマーな保護者と児童生徒のせいで、先生が大変な思いをするだけでなく、マトモな児童生徒・保護者も、学校でマトモな教育を受ける機会が減り(学校現場ではダメな輩に多くの教育資源が割かれている)、その教育現場の教育の質がより低下するという悪循環に陥る。つまり、今の公教育制度はモンスタークレーマー輩だけが得をするが、他のマトモな児童生徒もマトモな保護者も当然教師も損をするという制度(構造)


それが分かっているから、お金持ちは高い学費を払っても私学に子どもを通わせる。公立学校が優れているなら、塾はもちろん、私立学校に子どもを通わせるなんてことは起こらない


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長くなったけれど、換言するとガッコの先生の多くは塾のことを心のどこかでバカにしているけど、実際は塾どころか民間企業勤務経験もなく、学校しか知らないだけ。しかも、学校教育より民間塾の教育の方が優れていることが多い。それは学校教育が抱える構造欠陥に起因する』という私の体験からの意見。


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※基本的に、公立学校の先生はマトモな人が多いと思うけれど、「頑張っても報われないどころかデキる人には過剰に仕事が降ってくる」&「競争と評価がないので、一部の腐っている人、多くの怠けている人が淘汰されない」という大きな構造問題(欠陥)を抱えている。


※過去に属した大手塾は、先進的革新的教育の提供だけでなく、組織運営、経営手法も尖っていて学ぶところが多かった(クセも強かったけど、私は嫌いじゃなかった)。けれど、後に働いた中小規模の塾は時代遅れでした。公立学校は、全国レベルで有名なヤバい学区で働いていたので体験に偏りがあるかも…苦笑。でも、今でも公立勤務の友人も多いから情報はいつも入ってきます。私立学校は千差万別、労働環境も超絶ブラックな学校もあれば驚くほどピュアホワイトもある、提供している教育と労働環境に相関関係があるかどうかは正直分からない


※「そんなのは塾になってしまうから」「塾じゃないんだから」なんてセリフをガッコの先生から何度も聞いたことあるんだけど。あのね、私が知ってる塾(大手塾)が提供している「授業」はもちろん、「保護者・児童・生徒」へのカウンセリングやコーチングを含む各種の支援や情報提供は、ガッコのそれよりレベルが高かった。公立学校でも私立学校でもガッコの先生に対して「塾をなめんなコノ野郎!」と心の中で何度か叫びました


※塾仕事で保護者と面談している際に「学校の面談は、たったの15分程度で、先生とまともに話もできない」とおっしゃる保護者が多かった。塾支店長時代、私の保護者面談は、基本的に1時間を前提に確保、必要な場合は2時間以上いろいろと話を聴いたり伝えたりすることが少なくなかった。学校勤務においても「みのたけ先生は、他の先生と違ってしっかりと話を聴いてくれて、すぐ動いてくださる」と何度も言われた。塾時代なら「当たり前」のことをしていただけ…。まぁ大変な学区のガッコの先生は毎日家庭訪問で数時間使ってますけどね…。

 

教員に警察の仕事(犯人探し)させる今の学校教育は本当にダメだ。「誰が言った」「誰がやった」。それを「捜査」するのが「教育の仕事」? そんな警察仕事(犯人探し)を学校の先生に強いているのは保護者と社会。現代において学校の先生は「保護者の奴隷である上に、しかも警察ゴッコしろ!」と言われる。本当におかしい仕事、おかしい世の中。

私は、教育を志す若者がいても「社会の常識が変わらない限り、今の日本で学校の先生することを勧めない」。ガッコの先生より塾の先生のほうがマシ。塾は数字がキツイかもだけど…(苦笑)

 

※児童生徒の問題行動の大半は親の問題に起因します。その子の問題というより「家庭の問題」。「親」になるべきではない人間が子ども産むのは罪つくり以外の何者でもない。そもそも「己の性欲や物欲に従って命を産み出した」という結果(事実)は揺るがない。

 

※公立学校は税金負担で児童一人あたり約100万円ほどの学費。塾と比べても、なかなかの費用。このこと(公費負担額)すら知らない(意識できない)保護者や教員が多数。私は子どもの頃、学生時代に、塾に通ったことがほぼないが、教育業界入ってから「あぁ、これは塾の方が優れてるわ」と思いました。理由は上記の「競争」と「自由」。その解決ためには「選択肢の提供」が大事

 

 

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◆ここから今の日本の学校教育の分析と改善提案◆

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【日本の現状分析】

 

◆公立学校の役割:
1.高いお金出せない家庭も「義務教育」受けられる器になること
2.それによって国全体のスキル(読み書き、ソロバンなど)を底上げしておくこと


◆塾の役割:
1.国家の方針とはあまり関係なく、自由に、世間の要請に従って選択的にスキルを上げるための訓練所
(サッカースクールとかピアノスクールとかプログラミング教室などと同じ存在)


以上を前提とすると


現状の学校は”国家の要請”に従って、読み書き計算能力などを底上げする不自由な器」ということ。


私が考える日本国の学校制度改革案では「新たな学校は”国民・各家庭の希望”に応じて、読み書き計算能力・その他において、各学校の特色に応じた教育を選べ学ぶことができる、学ばせることができる自由な器」となります。


変更は「国家の強制・押しつけ(要請)」⇔「国民の選択(希望・要望)」の違いだけ。つまり、義務教育を「国家のための学校教育」 or 「個人のための学校教育」どちらにするのか?ということ


今の日本の学校制度は、基本的に「各既得権・利権」と「国家による教育方針の強制」を守るための制度

 

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解決策は、教育バウチャー制度導入や、学校設立認可をオランダ並みに緩和して、「健全な」自由と競争を日本の義務教育界にもたらすこと。この「競争」と「自由」が不利に働くのは田舎。だけど、そんなの「田舎に住む」ことを「選んでる」国民の自己責任。日本国民は「どこに住んでもいい」権利があるのだから。田舎は水準の低い公立学校の独占状態のままになるだろうけど、それは今と変わらないから劣化ではない。居住地選択の自由があるから自己責任&自然淘汰でいい。それこそが「自由と競争」。

 

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自由・選択・競争

私はコレが好き