2023年10月15日 記
まだ今現在はイスラエル軍によるガザ地区への大規模な地上侵攻は発生していない。
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20年前の今頃(正確には2004年の冬春だったかも)、私はイスラエルのエルサレム旧市街にいた。
エジプトにいる友人を訪ねたついでに、初めてのイスラエルを旅することになった。
折しも、米軍によるイラク侵攻(大量破壊兵器名目でフセイン打倒)によって、ウサマ・ビンラディン率いるアルカイダが全世界的な(特に米国を支持支援する国家や国民に対して)テロを公言していた時期だった。日本国、日本人もアルカイダのテロの対象として言及されていた。
まだ若かった私は「メチャクチャ航空券が安い!」と喜びながら、テロ被害に関する自己責任(販売旅行会社の免責)に関する誓約書にサインして、普段ではありえない破格の安さでトルコ航空のエジプト行き航空券を手にして中東を旅していた。
この航空券購入時、「トルコ航空もアルカイダからテロの警告を受けている」と旅行会社の人が言っていた記憶がある。だから、普段は必要ない「テロ被害に関する免責誓約書へのサイン」が必要だったようだ。後にも先にも、私はあの類の誓約書を必要とする航空券を買ったことはない。
話を戻す。カイロやアスワンなどを1人で旅して、エジプトをそれなりに満喫した後、在エジプトの友人と再会すると「イスラエルには行ったのかい? 行ってないなら、せっかくだから行けばいい」と薦めてきた。
「そんなもんかなぁ」と世間知らず(危機意識希薄)だった私はシナイ半島経由で、エジプトのアカバからイスラエルのエイラットに入国した。この際のイスラエルへの入国審査が今まで数十回の各国出入国境越えをしてきた私の経験の中では最も厳しいものだった。
まず、国境間の緩衝地帯(50メートルくらいだったかなぁ)にまたがる道をエジプト側からイスラエル側へ歩きながら上の方を何気なしに見ると、イスラエル側の小山に設置された物々しい砲台から、迫力ある大砲がこちらを向いて私を狙っているかのように感じて怖かった。
そもそも、アルカイダの声明のせいで外国人旅行者が少なく、団体ツアーは、日本だけでなく欧米も停止していた。その緩衝地帯をトボトボと歩いているのは、地元(?)の人ぽい数人と私くらいだった。
しかもアカバ→エイラット国境越えは「パスポートスタンプ」の関係で玄人バックパッカーからは好まれていないルートだった。通常、空路以外でイスラエルに入国するバックパッカーのメインルートは、ヨルダンのキング・フセイン橋を使うルートで、イスラエル入国の際は「別紙」に入国スタンプを押してもらい、敵対するイスラム教の国々への入国を後々拒否されないように避ける手法だった。
だから、このときにアカバ→エイラットの国境超えをした外国人旅行者は、ほぼ私しかいなかった。しかも日本人は珍しい。もちろん「別紙へのスタンプ」という気を聞かせてくれる気配もなかった。
入国審査では、スーツ姿の役人ではなく、迷彩服とマシンガン所持の軍人複数人に囲まれ別室送りになった。国境手続きの場所に軍人がいたり、手続きも軍人がやっていたりする国境超えの経験はあったが、別室送りも初だったし、軍人に囲まれて詰められたのも初体験。
私だけ別室に拘束され、30分から1時間ほど持ち物すべてを調べられ、それまでの国境越えでは尋ねられたことがなかった事柄についても色々と問い詰められた。
「ここまで来てエジプトに帰されるのか? それは勘弁してほしい」。そんな思いで受け答えをした。なぜなら、シナイ半島はエジプトにおいて訳アリのエリア(詳しくは「中東戦争」について調べてください)であるため、当時もインフラ状況が悪く、カイロからアカバに来るまで私もそれなりの苦労をして移動していた。イスラエルに入国することなく、あのエルサレム旧市街の地を踏むことなく元来た道をカイロまで引き返すなんてしたくなかった。
今思い出すと、この時(20年前の国境越)の私の日本国パスポートには、私が過去に留学した国(当時の日本人があまり留学しない国&イスラエルにとってあまり好ましくない国)の留学VISAが、非常に目立つカタチで添付されていたことも拘束が長引いた理由だったと思う。このVISAや留学に関する質問が多かった記憶がある。
そんなことで、最初(入国)から大変な思いをしたイスラエルだった。しかも、入国の滞在許可は1週間しかもらえなかった!(当時、通常であれば日本人は数週間~1カ月の滞在許可がもらえるハズだった)
エイラットに1泊してから、長距離バスでエルサレムを目指した。エイラットは紅海に面した結構綺麗な街だったので、少しノンビリ過ごしたかったが、入国審査でたったの1週間しか滞在許可がおりなかったので急いでエルサレムを目指したのだ…
嬉しかったのは、長距離バスが有名な死海経由で、死海に小一時間ほど休憩停車してくれたこと。まったく予想していなかったので、最初「なにか水に浮かんでいる人たちがいるが、もしかして、これがアノ死海か!?」と半信半疑で周りの人に拙い英語で尋ねまわった。
補足すると、当時、若い頃の私は英語が不出来で、TOEICスコアは500~600程度だった(←仕事の関係もあり、中年になってからスコア900程を取得しました)。ですので、若い頃の私の英語は、海外1人旅はなんとかできるけれど、サバイバル English の域を出ない旅の情報を集めるにも不十分な英語力でした。
予想外だったのは、イスラエル人も英語が下手だったこと。今は違うだろうが、当時(私が出会った)イスラエルの若者の中には、ほとんど英語できない人も少なくなかった。私は勝手に「ユダヤ人は賢いから英語なんてペラペラなんだろう」と思っていたが、明らかに私より英語ができないユダヤ人がいるということに驚きながら、「思い込みってイカンなぁ」と感じながら旅していた。
死海の他に長距離バスで覚えていることは2つ
1つは、破れたジーンズと自動小銃の銃口
乗っていた長距離バスの目の前に座っていたジーンズ姿のオニィちゃん(当時の私と同年齢程度)が、民営の長距離バスの中で自動小銃を携えていた。しかも、その銃口がバスの揺れでこっちを向いたりするので冷や汗ものだった。
休憩中に、私の拙い英語で尋ねたところ、オニィちゃんも拙い英語で答えてくれた。記憶と辿ると「予備役だから銃持ってるとか、訓練帰りだから銃持ってる」とか、そういうことを言っていた気がする。
それにしても、拳銃ならともかく、カジュアルな上着にくたびれたジーンズ姿で、大きく黒光りする自動小銃を持ち運ばなくても…。しかも、バスの座席に無造作に立てかけて私の方に向けなくても…と思った記憶はしっかりとある。この思い「銃口をコッチ向けて立てかけるな!」は、当時の私の語学力不足&胆力不足ため、彼(自動小銃オニィちゃん)に伝えることはできなかった。
長距離バスのもう1つの思い出は戦闘機の超低空飛行
イスラエルの荒野をひた走る長距離バス。エイラットからどのくらい走った地点かまったく覚えていないが、周りが礫岩の平原、荒野(?)のような場所で轟音が聞こえた。
※このブログのために調べたら、このあたりはゲネヴ砂漠という一帯らしいことがわかった。
バスの窓から外を見ると、ジェット戦闘機が超低高度(本当に地面すれすれ)で、バスが走る荒野の近くを並走するかのように飛んでいた。その後、数回そういう低高度飛行を見せてくれた後、戦闘機は視界(バスの窓の外)から消えた。
あの戦闘機の超低空飛行はなんだったのか。訓練だったのか、あたりを警戒して低空飛行していたのか、今でも分からないけれど、迫力満点だった。その後、日本でブルーインパルスのアクロバット飛行や、自衛隊のショーか何かでジェット戦闘機の低空飛行を見たけれど、イスラエルの荒野でのイスラエル戦闘機による超低空飛行の迫力に及ぶものはなかった。
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長くなったので、長距離バスがエルサレムに辿り着いてからの記憶は後日書こうと思う。