若い頃から印象に残っている曲の詩↓
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♪ 自分が自分の世界の主人公になりたかった
子供の頃から憧れていたものに
なれなかったんなら 大人のフリすんなぁ~ ♪
『THE HIGH-LOWS 不死身のエレキマン』
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↑だよね。と、思いながら生きてきたのだけれど、
最近、ふと気づいたのです。
実際は、上記の歌詞とは逆
自分が自分の世界(人生)の主人公になれなかった人 = 大人
なのでは??
むしろ
子どものままだからこそ、人生の主人公でいられる
のでは?
もしくは
人生の主人公は、大人のフリをする必要がなく、子どものままでも許される
のでは?
そもそも、子ども達って、自分の世界の主人公として我がままに自由に生きていますよね?
その子どもたちが、いつの間にか気づけば大人になっているのが人間社会。
でも、周りの”大人”を眺めると人生の主人公として生きていると感じられる人が少ないと思いませんか?
※アナタは、自分が自分の世界(人生)の主人公として生きていますか?
自分が人生の主人公として生きているなぁ、と感じられる大人の年齢の人たちって、Z社を売却して悠々自適お金配りオジサンしてる宇宙行った人とか、つぶやき社をXに変えた電気の力で車を走らせている人とか、生きるドアとかいう会社でオラオラやっていたけれど国家権力に目をつけられて叩かれまくって復活してきた多動のエモンとか。
もっと高齢であれば、やわらか銀行を元に間違ったヴィジョンで私たちの仕事とかに巨額投資して大幅ソンだしてるソンな人とか、外部から社長登用しては根性が足りんとか公開処刑しまくって自社の株価ばかり気にしているM&A大好きな老害化が著しい2木偶のお爺さんとか。
皆それなりの年齢にもかかわらず、良くも悪くも子ども心の塊のような人たち。
でも、アノ人たちは「自分が自分の世界の主人公だと感じながら生きている」でしょう。アノ人たち(いわゆる社会的成功者達)の心の核は、大人じゃないですよ、子どもです。
そして、成功者だから子どものままで居続けられる。子どものままだから成功した部分もあるだろうけれど、おそらく人生の成功者は子どものまま生きることを許される環境を自分で手に入れ、その成功環境を保ち続けているから子どものままでいることができる。
だから
大人=人生の主人公になれなかった人たち
子どもで居続けられる環境を自分で手にすることができなかった人たちが「大人のフリ」をして生きなくてはいけないのが人間社会なのではないでしょか?
自分の夢を我が子に託して親をやっている大人も同じ。そしてタチの悪いことに、そういう夢破れた親(大人にならざるを得なかった親)は、自分が主人公になれなかったことを我が子に押しつけている。
自分が人生の主人公をやっている親は、自分の夢(主人公になること)を子どもに押しつけたりしないからね。←押しつけられた時点で、人生の主人公じゃなくなることを知ってるのかもしれない。
だから、あの歌詞を正しくすると
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♪ 自分が自分の世界の主人公になりたかった
子供の頃から憧れていたものに
(主人公に)なれなかったから
大人のフリしてるんだぁ~(←せざるを得ない) ♪
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なのではないですか?
※私自身、現在いわゆる経済的自由を達成して自由に生きております。しかし、思い返せば、自由でなかった頃(=お金を稼ぐために雇われ仕事をしていた頃)は、「大人のフリ」をせざるを得ない場面が何度かありました。職場では、他の同僚と比べると何倍も上司や先輩に激しく噛みつきまくり、時には顧客に説教するような私でしたが、それでも雇われ人として働いている中で「大人のフリ」をしなくてはいけない場面があったと記憶しています。
つまり
「子ども・自由・自分が世界(人生)の主人公」
≠
「大人・不自由・自分は世界(人生)の主人公ではない」
そういう関係性なのだろうと、己の記憶を振り返っても、周りを眺めても思うのです。
自分で自分の世界の主人公になれなかった不自由な人たちが、仕方なく大人のフリしてる
社会を眺めていると、そんな気がします。