「みのたけ」の 教育・投資・生活etc

みのたけ中年の趣味用雑記メモ(非収益化ブログ)。倹約と投資で労働から卒業した隠居生活者。投資歴は20年ほど。

やはり若いうちに

 

なんだかんだ、若いうち、元気なうちに色んなことに挑戦しておいたほうが良いと改めて強く感じる。

 

現在の私は、年齢的には中年となり、資産的にもユトリのある部類に入るようだけど、もうコレと言って心の底から「やりたい!」と思うことが無い。

 

中年になっても色々とヤリタイことがある人もいるようだけれど、基本的に意欲や情熱は若い頃のほうが強く、年齢を重ねるごとに弱くなっていくと思う。

 

若い頃に旅した新興国(当時は発展途上国という呼び方だった国々)での貧乏バックパッカー旅や異国での長期留学、自由気ままにバイクを走らせてフラフラと深夜まで遊びまわった日々。

 

当時(若い頃)は倹約節約の4畳半貧乏学生生活だったけれど、得体のしれない鍋の中身をツマミながら友とワイワイ過ごした夜、それはとても楽しく充実した日々だった。

 

今、こうして中年隠居人として時間にもお金にもかなり余裕のある生活をしているが、幸せであるが充実感や情熱の滾りはあまり感じられない。

 

NISAだなんだと目先の流行り言葉に惑わされて、たかだか数百万や2000万弱程度の貯蓄を目指すのではなく、若いうちはできる限り海外に出たり、国内でも興味関心を突き詰めて行動したりと、自分の身体で多種多様な経験体験を積んだほうが良いと強く思う。

 

若さはとってもとっても大きな強み、貴重で大事なものだよ

 

午前中から温泉

 

 

今日は午前中からそれなりに有名な温泉に入り、今は休憩所でノンビリ。

 

世間は火曜?

 

それでも温泉には朝から入浴客がそれなりの数いる。

 

内訳は、外見で判断すると、明らかな高齢者が5割、50〜60代が4割。残り1割が私を含む中年と若者だった。

 

リアル友人眺めても、豊かでない人が少なくない。

 

そして、稼いでる友人たちも忙しく、平日昼間からノンビリしているのは極僅か。

 

本当に日本は貧しくなったな。

※1人あたりのGDP推移を眺めると納得

 

私は若い頃(四半世紀前)「日本は近い将来に立ち行かなくなるぞ!少なくとも“先進国”なんて胡座をかいていたら他国に豊かさでも追い抜かれていく」と言い続け、政治的な活動もけっこう本気でしてたんだけど、聞く耳を持ってくれた友人は1〜3割だった。

 

そのような政治を通しての社会全体に対する改善を訴える活動と並行して、自己責任での自分の人生運営(倹約家と投資)も私は若い頃からかなり意識的に続けてきた。

 

だから、中年になった今、周りはセコセコと生きているけれど、私はノンビリ豊かに暮らしています。

 

「幸福な人生?」多くのものを必要とする者が貧しい。なぜなら、買い物の代金を払うために生きている限度のない物欲人生だから。

 

 

世界一慎ましい暮らしで有名なウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領

 

「わたしの生活は質素です。毎日少しずつ、1日に3時間から4時間、畑を耕しています。シンプルな暮らしの方が好きなのです。これは『多くのものを必要とする者が貧しいのだ。なぜなら、その限界を知らないから』という、古い哲学に基づいています。

私たちは、欲求を満たすために、人生の時間を費やさなくてはなりません。もし“欲求”が無限に拡大するとしたら私たちには時間がなくなり、それだけで人生が終わってしまうでしょう。シンプルに生きる道を選ぶことで、より自由を得ることができます。

強制されたものではなく、自分の好きなこと、選択したことに人生の時間を費やすことこそ“自由”なのです」

 

「われわれは時代の変わり目にいます。ひとつの世界が去り、別の世界がやって来ます。

しかし去る者はまだ去っておらず、来る者はまだ来ていない。だからこそ、今は多くの矛盾を抱えた不確実な過渡期の時代なのです。

小さなスマホを持って抽象的な虚構の世界を生き、新しい物を買うためだけにぼんやりと生きることもできます。あるいは、情熱という自分の人生に満足感を与えるもののために生きることもできます。

若い人は科学や研究、スポーツ、さまざまな分野で挑戦ができます。文章を書くことも、絵を描くこともできます。サッカーでも良いのです。これだということを何かひとつ持つのです。

もし買い物の代金を払うために働いて、働いて、年を取るまで働き続けたら、最後に大きな疑問が生じます。『私の人生は何だったの?』と。

ですから、生きるための大義名分を見つけることが大切なのです」

 

https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2024/02/06/37265.html

元記事

 

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シンプルな暮らしの方が好きなのです。これは『多くのものを必要とする者が貧しいのだ。なぜなら、その限界を知らないから』という、古い哲学に基づいています。

 

私たちは、欲求を満たすために、人生の時間を費やさなくてはなりません。もし“欲求”が無限に拡大するとしたら私たちには時間がなくなり、それだけで人生が終わってしまうでしょう。シンプルに生きる道を選ぶことで、より自由を得ることができます。

 

強制されたものではなく、自分の好きなこと、選択したことに人生の時間を費やすことこそ“自由”なのです。

 

小さなスマホを持って抽象的な虚構の世界を生き、新しい物を買うためだけにぼんやりと生きることもできます。あるいは、【情熱】という自分の人生に満足感を与えるもののために生きることもできます。

 

若い人は科学や研究、スポーツ、さまざまな分野で挑戦ができます。文章を書くことも、絵を描くこともできます。サッカーでも良いのです。【これだということ】を何かひとつ持つのです。

 

もし買い物の代金を払うために働いて、働いて、年を取るまで働き続けたら、最後に大きな疑問が生じます。『私の人生は何だったの?』と。

 

ですから、【生きるための大義名分】を見つけることが大切なのです

 

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ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領、まだ存命だったのか。

 

生きるための大義名分】を見つけ、その生き方を貫いた。その人生の終わりには何が待っているのだろう?

 

その時を迎えた本人しか分からないことだけれど、おそらく、物欲人生(買い物の代金を払うために生きる)よりは良い終わりを迎えることができそうな気はします。

 

【生きるための大義名分】探しは、なかなか高位の作業だと思うので、まずは【モノより体験】に重点を置く生き方をすることが幸福な人生への第一歩かなと私は考えています。

 

【情熱】かぁ〜🤔🤔🤔

 

 

若さと老いのバランス&持病からの鈍痛

 

 

10日ほどの小旅から帰宅

 

日本の晩冬初春における花粉と寒さは良くないね…

 

あと、旅の序盤から発生した持病の1つから鈍痛がまだ続いている…

 

お金(貯蓄)は、このままのペースで使うなら半世紀分程度はあるのだけど、体力や健康というのはね中年だから…

 

重病ではないので、妻が言うように「サクッと手術」してしまえば良いのだけれど(苦笑)

 

 

 

 

閑話休題

 

 

 

【後期高齢者が若い頃の自分自身に助言できるとしたら】という問いがあり

 

「たくさんたくさん旅をしなさい」
「良いと思うことを全部しなさい」
「色んなことに挑戦し続けなさい」

 

↑WEB上でこんなメッセージを見かけた。

 

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「“”若いうちに“”やりたいことに挑戦しまくれ! とにかく行動しまくれ! やりたいこと全部やれ!」という主張や助言、中年になった現在「ホントそうだよねぇ」と思う。

 

実際、自分も若い頃からまずまず行動と挑戦はしてきた方だと思ってもいる。反省はあれど、アレやっておけばヨカッタという後悔はかなり少ない方かなと。

 

が…

 

中年になったリアル友人たちを眺めると…

 

若い頃から今まで、演劇やECO活動やNPOだとか、そういう好き放題なコト、やりたいコト“だけ”を続けてきたリアル友人たち。

 

“後先考えない眼前思考”で好き勝手に生きてきたそういう人たちの多くは、中年以降お金が無くて、自分が好きなコト、やりたいコト、そして自分の子どもへの充分な教育投資などができなくなっている。

 

バランスって大事。

 

将来のことを考えた上で許容範囲を意識しながら、その中で好きなコト、やりたいコトに挑戦しつつ、やるべきコト、やっておいたほうが良いコトも行動していく。

 

そういうバランスが大事なんだと思う。

 

 

 

(と言っても、小学生でも大学生でも、40代でも60代でも、80歳でも100歳でも、“誰でも今が1番若い“”のだよなぁ…)

 

 

中年の隠居(FIRE)生活「その先にある広がり」

 

隠居生活開始から早2年以上。

 

特別な活動は何もしていない。

 

私の隠居(FIRE)生活は、四半世紀前の大学生だった頃の空気感(雰囲気・自由度)に近いかもしれない?

 

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この2年、国内の東西北にちょこまかとした小旅を10回弱、南だけは1カ月単位の旅を1回。海外旅行は2カ国だけ。

 

その他に目立ったことは、退職直後の失業手当受給を兼ねた職業訓練と半年前に始めたジム通いくらい。

 

好きな時間まで夜ふかし、好きな時間に起きる生活。そのため曜日感覚が無く、妻の休みで土日を認識する。

 

あまりにもメチャクチャな昼夜逆転生活(深夜3時頃に食事して即横になるetc)をしていたので、一時期は胃が荒れ、人生初の胃カメラを飲むに至ってしまった…

 

2024年になっても、東へ1度旅行したことと、旧友たちとの新年会に2度参加したくらいで、他の時間はジムとアマプラ、ときどき料理をする程度。

 

勉強したほうが良いよな、と意識している資格が2つあるのだけど、テキストを買って眺めているだけで学習はいっこうに進んでいない…(苦笑)

 

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隠居(FIRE)生活は、四半世紀前、自分が学生だった頃の空気感(雰囲気・自由度)にかなり近い?

 

しかし、若かりし頃の学生生活と対比して考えてみると、「今後の人生の広がりへの意識」が大きく異なるかもしれない。

 

学生時代は「自分の前(未来)にある漠然とした“広がり”」を無自覚ながら強めに感じつつ、その広がりをなんとなく意識しながら生きていた気がする。

 

若い学生だった自分は、その広がりに合わせ備えるかのように、豊富にあった時間を、政治現場に足を運んだり、国際関係の学びに繋がる行動をしたり、資格取得の勉強時間に使ったりしていた。

 

そのような日々の行動を通して、様々な人との出会いや関わりが発生し、人生における視野が少しづつ広がっていく感覚が若い頃にはあった。

 

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一方、現在の中年隠居(FIRE)生活はどうだろう?

 

私の家計はFinancial Independence状態。日本が大規模な戦争に巻き込まれたり、財政破綻して国家として現状の金融システムや社会制度が崩壊してしまうという規模の不測の事態への心配を除くと、将来的な金銭的不安はほぼ無い暮らしをしている。

 

だからだろうと思っているが、稼ぎに繋げるための資格取得に関わる学習に対して、若い頃のようにがむしゃらに取り組むことができていない中年期の隠居生活。

 

仕事をRetire Earlyしたことについては、前職がかなり良い労働環境だったこともあり、不満からの退職ではなく、長く専門にしていた業界でやりたいことを色々とやって個人的に満足した&その職種における面白さの限度が見えたからだった。

 

私は好きなことしか取り組めない気質持ちなので、当然のように雇われ仕事も自己実現を兼ねており、それなりにヤリガイも感じていた。しかし、雇われて働くことの第1目的はお金様を稼ぎ蓄えることだった

 

そこに出現したのが「お金を貰うための不自由」と「自由気まま」の天秤の傾き

 

いくら待遇が良いと言っても、年間200日以上も仕事職場に拘束されるという不自由が、貯蓄充分となった自分の自由とは釣り合わなくなった

 

そこにアノ新コロの馬鹿な騒ぎが、「資産の急増」と「仕事による拘束の不自由さ痛感」の両面において、自由人生への選択(退職隠居)を後押ししてくれた。

 

そして得た自由。

 

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今思えば、自由だった学生の頃に漠然と感じていた「その先にある広がり」は、30代、40代の自分の人生への展望だったのだろう。

 

では、その年代に達した自由な中年の私にとって「その先にある広がり」とは何なのだろう?

 

実子がいる中年であれば、かつて己の中にあった「その先にある広がり」を我が子に投影しながら育て眺めるという季節なのかもしれないが、ウチに子どもはいない。

 

そんな自分の先にある広がりは、50代、60代の人生

 

( それが“広がり”なのか?という疑問は一旦置いておいて… )

 

現在の私にとっては「50代、60代をどう生きるか?」が「自由な隠居中年生活をどう過ごすか?」の思考のスタート地点なのか?

 

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「君たちはどう生きるか」ではないけれど、さてさて、どう生きよう?

 

「中年“を”どう生きるか?」に関して、現在の私には明瞭なアイデアがない。

 

そういえば、若い頃は「自分探し」という言葉や「自分探しの旅」なんてのが流行っていた。

 

学生時代の私は、「自分探し」というのは「自分ができること(得意不得意)」と「自分がしたいこと(興味関心)」の分類作業に過ぎないと思っていたけれど…

 

お金に余裕がある自由な中年になったので、「自分探しの旅」ならぬ「世界探しの旅」なんていいかもしれない!?

 

私が今まで旅したり住んだりした異国は30カ国弱(大半は20代前後に訪問や留学)。

 

個人的には、ユーラシア大陸の中央地域からやや西部と北部に強めの興味あり。

 

しかし、海外は色々と準備しなくてはいけないので、スギ花粉が猛威を振るう前に、今週は日本南部へ出かけようと思う。

 

 

生産年齢人口1人当たりGDPと石川啄木

 

jp.wsj.com

 

「“生産年齢”人口1人当たりGDP」で見ると、日本の2008~19年の成長率はG7の中でトップだった。総人口の代わりに生産年齢に注目すると、日本は先進7カ国の下位から1位に浮上する。

これが明るいニュースだと感じてるならヤバすぎ。俯瞰すれば全く逆だと分かる。

 

先の10年間で日本の“現役世代”は世界一頑張って工夫して働いて結果も出した。生産効率を上げまくった。

 

“しかし”

 

「国家全体としての相対的な国力」は低下

(国単位のGDPは世界2位から4位へ)

 

「国民一人ひとりの実感としても実態」も、生活は苦しくなった

(社会保障費負担の増加とインフレで実質所得の低下)

 

そして、人口構造から確定事項として、今後ますます社会保障費は爆増。おそらくインフレも定着。

 

「働けど働けど、なお我がくらし楽にならざり」なんて石川啄木の言葉を引用しなくても、大半の“現役世代”は労働のキツさ、生活の大変さを実感してると思う。

 

“すでに”日本の“現役世代”は世界一働いて結果を出して生産効率を上げてきたのに、それでも超高齢化をひた走る国家全体としては果実が不足しているということが、この「1人当たりのGDPの成長率トップ」だった“にも関わらず”停滞から衰退へと進んでいる日本国の有様から分かる。

 

そして、上記の統計結果(生産年齢”人口1人当たりGDPで見ると、日本の2008~19年の成長率はG7の中でトップだった)から理解すべきことは、これからの日本国の“現役世代”は今まで以上に工夫して働いて結果を出しても、なお貧しく苦しくなっていくだろうということ。

 

現役世代はこれ以上どうすればいいの?

 

すでに世界一の努力と工夫で生産効率上げまくったのに、それでは足らず、「もっともっと」を要求され絞りとられ続けていく…

 

しかたないよね

 

“日本は普通選挙制民主主義国家(国民主権)”なので、過去20年以上にわたって、この状態になることを選んできた“我々有権者(=主権者)一人ひとりの責任”

 

眼前思考の空気人間マジョリティによる衆愚政治民主主義の末路・苦笑

 

ちーーん

「今を生きる」こと、目の前しか見ることができない人たち、アリとキリギリス

 

つくづく分かったのは、目の前しか見ることができない人たちというのは、教えてあげても訓練しても、基本的に眼前思考しかできない。その上で、今を生きている。

 

逆に、自分も含め長期逆算思考のタイプは、誰に教わるでもなく生来の思考パターンとして、良くも悪くも長期視野で世界世間を眺めている。その上で、今を生きている。

 

アリとキリギリスは、どちらも「最適解」を選択しながら「今を生きている」。ただし、眼前にぶら下がった安易で甘い最適解は、快適で安心な将来につながる最適解とは往々にして異なるということだろう。

 

誤解されがちだけれど大事なことは、眼前思考者だけでなく、私を含めた長期逆算思考者も「今を生きている」という点。

 

昨日、ジムの帰りに街を歩きながら、自分の生きてきた約半世紀ほど、その周りにいた人達の選択と人生、社会に起こった出来事。マスゴミ、広告、政治家、インフルエンサーなどによって発熱と沈静を繰り返してきた衆愚マジョリティなどを振り返りながら、そう思いました。

 

 

「新コロ怖い!!」「国民全員PCR検査しろ!」「ワクチン打ってない人は許可しません!」「マスクしていない人は入室できません!」「陰性証明を出してください!」と騒ぎまくっていた、あの差別主義者達、大馬鹿達はどこへいったのか?

 

新コロウイルスは当時と比べても対して弱毒化してないし、新コロワクも変わらず接種できるらしいけど、ちゃんと打ち続けているのか?

 

おそらく、わずか1〜3年ほど前のことすらスッカリ忘れ、また得意の眼前思考を繰り返しているのだろう。

 

「放射能放射能!」「東北、絆!」「政権交代マニフェスト!」「構造改革ニッポン!」「阪神震災、地下鉄サ○ン」「貸し剥がし」「イラク戦争」「ジュリアナ、お立ち台、Tバック」「NYに行きたいか!?」「アッシー、メッシー」「不動産神話、株バブル」「Japan as Number One」。眼前思考のマジョリティ衆愚とパンとサーカス。

 

 

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