「みのたけ」の 教育・投資・生活etc

可能なら皆幸せな社会が良いけど、実際むずかしいよね …(苦笑

マルクス翁と資本論と投資家

 

 

人間の労働があらゆる富の源泉であり、資本家は、労働力を買い入れて労働者を働かせ、新たな価値が付加された商品を販売することによって利益を上げ、資本を拡大する。資本家の激しい競争により無秩序な生産は恐慌を引き起こし、労働者は生活が困窮する。

 

資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現れる。したがってわれわれの研究は商品の分析から始まる。

 

人間生活にとって1つの物が有用であるとき、その物は使用価値になる。われわれが考察する社会形態では、使用価値は同時にまた、もう1つ別のものの素材的な担い手になっている。それがすなわち交換価値である。

 

物は商品であることなしに有用でありえるし、また人間労働の産物でありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満たす人は、なるほど使用価値をつくってはいるが、しかし商品をつくっているわけではない。

 

商品をつくるために彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を社会的使用価値を生産しなくてはならない。

 

商品は、その使用価値の雑多な実物形態といちじるしい対照をなす共通の価値形態、つまり貨幣形態をもつということなのである。

 

この優越的な地位をひとつの特定の商品が歴史の中で獲得した。それが金である。金・銀は生まれつきの貨幣であるのではないが、貨幣は生まれつき金・銀である。

 

貨幣は使用しているうちに摩滅し、名目上の量ではなくなる。実質的な価値と名目上の価値が分離する。だから紙幣で代用できる。紙幣は「記号」になる。

 

紙幣は金の記号または貨幣の記号である。紙幣は、他のすべての商品量と同様に価値量である金量を代表するかぎりでのみ、価値の記号である。

 

貨幣は商品価格の一時的に客観化された反射であるから、種々の記号によって代替されることもできる。

 

最初に投じられた価値は流通の中で保存されるだけでなく、流通の中でその価値の大きさを変化させ、余剰価値を付加する。すなわち価値を増殖させる。そしてこの運動が価値を資本に変容させるのである。

 

資本としての貨幣の流通は自己目的である。なぜなら価値増殖はたえず更新されるこの運動の内部にしか存在しないからである。資本の運動にはしたがって際限がない。この運動の意識的な担い手になったとき、貨幣所有者は資本家となる。

 

抽象的な富をより多く手に入れることが彼の行為を支える唯一の動機であるかぎり、彼は資本家として、あるいは意思と意識をもつ人格化された資本として機能する。

 

したがって使用価値はけっして資本家の直接の目的として扱われるべきでない。それどころか個々の利潤ですらその目的とはいえず、目的はただひとつ、利潤の休みなき運動である。

 

価値はたえず貨幣と商品いう二つの形態を相互にとりながら、自分の身の丈を変化させ、もともとの価値としての自分自身から余剰価値としての自分を排出し、自分の価値を増殖していく。

 

 

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)
 

 

資本論〈第1巻(下)〉 (マルクス・コレクション)
 

 

 

らしいにゃ

しらんけどにゃ